横浜弁護士会新聞

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1999年3月号(1)

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新理事者決まる
委員会活動の活性化と司法改革の実践を  次期会長 岡本 秀雄(25期)
1.略歴 戦争中に出生し、戦後の混乱期に育ちました。育ったのは東京都品川区でしたが当時は空き地も多く日が暮れるまで泥だらけになり遊びました。昭和三五年に一橋大学経済学部に入学しましたが、直くに安保騒動を経験させられました。故増田四郎先生の下で西洋経済史を三年間勉強しましたが、増田先生からは、歴史的に物事を考えることの大切さを教えられました。
  その後同大学の法学部に学士入学し司法試験に合格しましたが、これは苦しい思い出が多かったように思います。
2.当会について 派閥もなく、風通しの良い弁護士会と思います。先輩の弁護士の横浜弁護士会を愛する気持ちには敬服しています。しかし、派閥のないことが会活動を活発化するのにマイナスに作用しているところもあると思います。このような中で、どうしたら委員会活動を活性化できるかが課題と考えています。  
3.抱負 名誉ある横浜弁護士会の名を汚さぬよう力一杯会務に励む所存です。委員会活動の活性化や日弁連の提唱する司法改革を実践していきたいと考えています。政府も内閣に司法制度審議会を設け二年内に意見書を内閣に提出することとなるようです。日弁連が考えている司法改革が採り入れられるよう市民とともに考えていくことが求められていると思います。自民党や財界も日弁連と同様に法曹一元を主張しています。その実現に弁護士が桎梏とならないよう準備を始めていかなければと考えています。法律扶助法も近々成立することになりますが、その内容に関心を払っていかなければならないと思います。市民と弁護士、弁護士会の敷居を低くすることと、より良い司法を目指し、改善の方向に舵をとれればと考えています。
 4.風通しの良い弁護士会にしたいと思いますので、忌憚のない意見を理事者にどしどしお寄せ下さい。

試練を自らの糧として  次期副会長  森田 明(34期)
 昭和三〇年九月九日に横浜で生まれ、以後ずっと住まいは横浜市内。出身大学は中央大学法学部法律学科で、駿河台校舎の最後の卒業生です。
 実務修習も横浜で、出身地であるという以上に、弁護士会の雰囲気が気に入って、当会に登録しました。
 さしたる趣味はありませんが、スキーだけは毎年欠かしません。運動神経がなくてもそこそこ滑れるのがスキーのありがたいところです。
 会務としては、公害、情報公開などの委員会に参加し、日弁連の委員も長く務めてきました。しかし、副会長になると決まってから見渡すと、会務は極めて多岐にわたり、弁護士会は内外に多くの困難な課題を抱えていることを痛感します。何でこんな時期に、とぼやきたくもなりますが、試練を自らの糧とするつもりで前向きに臨もうと思います。
 慣例により筆頭副会長となりますが、実は副会長の中では最も若年で、貫祿不足は否めません。何卒よろしくお願い致します。

居心地のよい会を大切に  次期副会長  星野 秀紀(35期)
 昭和二八年七月東京に生まれ、一時、名古屋で生活しましたが、公立の小中高校を経て国立大学に進学し、しかも在学中から妻に食わせて貰って学費免除となるという経験をしました。家族はその頭の上がらない妻と、高三の長男、中三の次男、小六の長女の五人です。五年前から横浜線の相原駅近くに住み、遠距離通勤になっています。夢は半農半弁・晴耕雨弁ですが実現しそうもありません。趣味は山登りで、丹沢、八ヶ岳あたりには一人で出かけます。
  横浜弁護士会は、居心地のいい会だと感じています。自由に意見が言えて、風通しがよく、しかも和が保たれている。これは大切にしていかねばならないと思います。
  入会当時は会務に無関心でした。消費者委員会などを中心にして会務に携わってくると、弁護士会活動の重要性と面白さがわかりかけてきました。もっと全体に目を開いた活動ができるのではないかと期待すると共に、重責に怯え始めているところです。日常の弁護士業務も疎かにしてはならないと肝に銘じています。暖かいご助言をお願いします。

何となくお役に立てば  次期副会長  水地 啓子(35期)
 横浜市港南区。家族は夫(当会会員木村保夫)と男の子二人(小一と二歳)です。
 子どもの頃は転校生で、横浜には高校生から。以来修習も横浜でそのままずっと修習先事務所に居座っています。
  転校生としての習い性か、 降りかかる事態を受け入れるのがやっとで自分から何かを求めないところと、愛想よく迎合的なところとがあります。
  理事者に立候補するにあたっても多分にそういう点があり、具体的抱負というより何となくお役に立てばという気持ちばかりです。ただ、個々の会員が思う必要な会務の範囲や内容が皆異なっていることと、会務を公平に分担することとの兼ね合いの問題を感じてきましたので、これを念頭におきつつ、何かをなしたいという思いの強い方々のお手伝いをしたいと思います。
  子どもたちは、今も自転車通勤のおばあちゃんとお留守番の毎日ですが、今年はおかあさんの帰りがますます遅くなって、お泊まりもあることはまだ知りません。こちらの兼ね合いもこの一年ますますむずかしくなりそうです。

身近で頼りになる弁護士会を  次期副会長  齋藤 芳則(35期)
 1.昭和二六年九月一四日、神奈川県厚木市で生まれ、実務修習で長野に住んでいたほかは、ずっと厚木に住んでおります。幼少の頃は病気がちで、横須賀市内の病院に入院したこともありそのせいか、現在、種々の健康食品を購入して健康に気を遣っております。
2.私は、小田原支部を中心に仕事をしていたことから、あまり委員会等の会務に参加しておりませんでした。しかし、数年前から支部においては、各委員が当番弁護士や市民法律講座を担当し(小田原・平塚・厚木の三地区において毎年開催)会務に対する意識も高まっております。会員の中には交通の便や時間的な問題から委員会等には参加されていない会員もおられますが、会務への積極的な参加をお願い致します。
3.今後、弁護士の数も、急速に増加してゆくことになりますが、会としては市民のニーズを的確に把握し、市民に身近で頼りになる弁護士会を目指す必要があると思います。

後輩のための環境整備を  次期副会長  佐藤 修身(36期)
 昭和二四年、六人兄弟の五番目として、横須賀に生まれ育つ。横須賀高校、浪人・留年を経て東大卒業後、フリーターとしてマスコミ等に首を突っ込みながら、自由気儘な一人旅をし、社会の裏側から見聞を広める。
  三〇歳になり、結婚を迫られ、正業に就くことを考え、受験勉強に没頭する。結婚の翌年、晴れて修習生となる。
  伊藤正一事務所で五年間イソ弁、独立五年後に事務所移転、更に昨年事務所購入、一五年後の今年は副会長と、五年周期で転換期を迎える。
  入会当初は会務より、自分の人生と仕事を第一に考えていたが、社交委員になった当たりから徐々にのめり込み、気付いた時には多重会務者の一人として、事務所維持に青息吐息の今日である。
  ところで、副会長として格別あらたまった抱負はないが、司法改革の行く末を見詰め、また、後輩が事務所経営の心配無く率先して副会長を望めるような環境整備を考えてみたい。生まれ育った土地柄から(小学校の遊び仲間にはヤクザの親分になった者もいる)、やや下品で言葉遣いも悪いが、皆様のご協力をお願い致します。

山ゆり
 ある無料法律相談でのことである。「ありがとうございました。元気が出てきました。」折り目正しい老婦人は当初の気落ちしきった表情をやわらげ「困ったら又きます」と一礼し、落ち着いた様子で帰っていった
  その婦人は重い障害を持つ娘を立派に育て上げて嫁がせ、今は元公務員の夫と二人暮らしの六〇代後半の女性。結婚当初から夫は酒乱で暴力は絶えず、子供を連れて何回か実家に逃げ帰ったが、その都度両親に説得され、我慢して元のさやに納まってきたという
 戦前の女学校卒で、良妻賢母というのはこういう人のことかと思わせるところがあった
 さてその相談は、定年を迎えた夫とようやく安らぎのある生活を送れるようになったと思った矢先、その夫が脳梗塞で倒れ、半身不随で介護の必要な状態となってしまったという。倒れてからも生来のわがままはますます亢進し、看病にほとほと疲れノイローゼ寸前という。自分から離婚を申し立てることができるかというのである
 話を聞きながら、私は同情の念を禁じえなかった。同時に法律というものの無力さも
 しかし一気に話し終えた彼女は一言、「実は今ここで離婚を言い出すのは気が咎めてとてもできないが、いよいよ辛抱できない時がきたら又相談にのって下さい」
 私は弁護士として何一つ法律的助言はしなかった。しかし、対話を通して彼女を少しは勇気づけ、励ますことはできたのではないか
 counseingは法律「相談」と同義であり、counselorh弁護士の意味にも使われることを改めて考えさせられた。 (佐藤 克洋)
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