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Arbeit macht frei(働けば自由になれる)

2026年07月06日髙岡 俊之弁護士

 2026年6月24日、私は、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館を訪問した。

 アウシュビッツ収容所が1940年から1945年までの5年間、ナチスが占領した国々の人々を恐怖の底に陥れたことは周知の事実である。アウシュビッツ収容所は第1収容所から第3収容所まであり、オシフェンチムにある第1収容所がいわゆるアウシュビッツ収容所で、ここから3キロほど離れたブジェジンカ村にあった第2収容所がビルケナウ収容所である(第3収容所はモノビッツにあったが今はない)。Arbeit macht frei(働けば自由になれる)のレリーフは、第1収容所の門にある。また、第2収容所の門は死の門とも呼ばれ、鉄道の引き込み線がある。

 アウシュビッツ収容所は、1940年にポーランド人の政治犯を収容するために設立されたが、時の経過とともに、ナチスは様々な国々の市民(主として、ユダヤ人、ソ連軍の捕虜、ジプシーなど欧州全域の人々)を送り込んだ。1942年から、いよいよユダヤ人絶滅がナチスの中心的課題となり、この収容所でユダヤ人だけでも110万人が抹殺されたとされる。特にビルケナウ収容所は、抹殺のために、複数のガス室・焼却施設を新設し、引き込み線で送られる70%(妊婦・子ども・老人・障害者)は、その場で選別され、直ちにガス室送りとなった。

 これは、全ユダヤ人をもれなく消し去るためだけにシステム化された装置であり、ヒトラー(より具体的にはヒムラー)の命令により、確実に実行された。

 収容所長だったルドルフ・ヘス(ちなみにイギリスに亡命した「ナチ副総統ルドルフ・ヘス」とは別人で「ヘス」の綴りも違う。)の言葉である。「たしかに、この命令には、何か異常なもの。途方もないものがあった。しかし、命令ということが、この虐殺装置を私に正しいものと思わせた。当時、私は、それに何ら熟慮の目を向けようとはしなかった-私は命令された-だから、それを実行しなければならなかったのだ」(「アウシュビッツ収容所」フドルフ・ヘス著)

 いまいちど、我々は「熟慮の目」をもって、「危険な動きはないか」、委細に渡って監視していく必要があるのではないだろうか。

写真1

アウシュビッツ収容所

写真2

ビルケナウ収容所「死の門」

 

執筆者情報

弁護士名 髙岡 俊之

 

こちらに記載の事務所情報等は執筆当時の情報です

 
 
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