横浜弁護士会新聞

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2000年6月号(2)

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 四月二六日午後一時より、横浜弁護士会館にて、本年度の新入会員研修会が開催された。当日は、二五名の新入会員が出席した。
 最初に、永井会長より「ぜひ司法改革及び弁護士倫理に敏感になってほしい」との話があり、新入会員らも緊張した面持ちであった。
 次に、岡本前会長より、「弁護士会の活動・会務について」の説明がなされた。会務については、新入会員がこれから実際に携わっていくであろう委員会活動・法律相談業務・法律扶助事業等を中心に話がなされた。また、日弁連、関弁連、関東十県会それぞれの位置関係、各組織内における迅速な意思決定と会内民主主義の調整の困難さについての話があり、その関連で、現在弁護士が直面している司法改革に関する様々な問題点についても言及され、興味深かった。
 続いて、杉崎茂綱紀委員長より「弁護士業務活動上の注意点など」につき講話が行われた。綱紀・懲戒委員会の各位置付け、業務活動上トラブルになりやすい場面、懲戒申立されないための心構えにつき具体的な説明があったほか、「同業者内の縦横の人間関係を大切にし、会務や同期会に積極的に参加して、相互監視作用の働く環境の中に自分を置くこと」を強く勧められたことが、印象的であった。
 その後、若林正弘会員より「法務研究財団についての案内」、箕山洋二会員より「協同組合についての案内」がなされた。
 休憩をはさんで、後半は、まず、高橋理一郎会員より、「着手金・成功報酬の計算方法、実費等の金銭管理について」の講話があった。右は、事前に新入会員らに配布してあったいくつかの事例をもとに、弁護士費用を検討するという方式で行われた。中には、計算方法につき、意見が分かれるような複雑かつ微妙な事例もあり、勉強になった。
 最後は、岡田尚会員による「国選・当番弁護士を含む刑事弁護について」の講話であった。刑事弁護と民事弁護の違い、刑事弁護人の役割と存在意義などについて、設問を取り上げながら検討し、刑事弁護における弁護士のあり方について考えさせられた。
 以上のとおり、研修会は盛り沢山の内容であったが、いずれも興味深く実り多かった。
 研修会終了後、中華街の「華勝楼」にて新入会員歓迎会が開催された。各新入会員の自己紹介の他、野球部、テニス部、絵画同好会等、多くのクラブから勧誘がなされ、なごやかで楽しい歓迎会となった。
(研修委員 渡辺玲子) 

訟廷日誌に記載がない!?
 第一次オイルショック後の不景気風が吹く昭和五〇年四月、大類武雄法律事務所から独立し、馬車道に面した新しいビルの五階に小さな事務所を構えた。賃料と事務員さんの給料、その他もろもろで五〇万円もあればやっていけた。といってもその見通しがあったわけではなく、何とかなるだろうで始めた。大類事務所からの引継ぎ事件が一五件前後、自分の事件も多少あった。両親と同居していたので、家賃とかローンの支払などもなく、その点では多少気が楽であった。
 イソ弁期間は五年であったが、独立後も長い間仕事の打合せや報告などで大類事務所に出入りしていた。昭和五八年に先生が亡くなり、まもなく事務所も閉鎖されると、裁判所や弁護士会館への行き来の際に、そのあたりに何か空白のスペースが生じてしまったような思いをした。先生は、仕事の面ではなかなか厳しく、先輩弁護士の中には起案した原稿を投げ返されたこともあるという伝説?があるが、私のイソ弁の頃にはお年のせいかだいぶ柔らかくなっていた。それでも、私の起案文の中にあった「敢えて、…」という表現を指して、「村瀬君、この『敢えて』はどうやって立証するのかね?」と尋ねられた。「立証できないことは、主張するな。」ということを言われたのであった。
 先生は、会務についても大変熱心で、また当会のみならず他会の先生もよく事務所にいらした。そのお陰で多くの先輩諸先生のご面識を得ることができた。そのような環境にもあったせいか、独立したころの訟廷日誌を見ると、常議員会、司法問題対策委員会・研修委員会・公害委員会・司法制度委員会・小田原支部問題調査特別委員会の各委員、日弁連刑法改正阻止実行委員会事務局委員、何をしたのか覚えていないが刑事訴訟法研究会など、私は今で言う多重会務者であった。その上、イソ弁の頃から始めた判例研究会が月に一度あり、さらに大類事務所のイソ弁の永井先生や内山先生らとの麻雀や、福富町あたりのクラブで飲んでいたりで、家に帰るのは毎晩のように遅かった。その頃のホステスさんは、それぞれ人情も根性もあって人間的にも魅力があり、今のように何かスカスカしたところがなかったように思うが、これは私の年のせいであろうか。
 ということで、昭和五〇年の三月三日には二女が出生しているのだが、訟廷日誌のその日の欄にはそれに関する記載が何もない。今になってこのことに気がついた。出産に立会いもせず、いったい私は何をしていたのだろう。
 ところで、この判例研究会は、恒例の二泊三日の夏季合宿も含めて今でも続いている。参加する修習生や若手弁護士のためのインキュベーターであると思っていたが、いつの頃か、私にとってのそれになってしまった感である。また、まもなく始めた大類杯争奪ゴルフ会も、大類先生没後は先生の俳号「淡水」を戴いて、「淡水杯争奪ゴルフ会」と名称を変え、参加メンバーも広がって和気あいあいで現在も行われている。

会員 鈴 木   質
工夫・気配りが足りない
─広報委員会には耳の痛い指摘─
 「概ねここ一年の新聞に関する辛口批評を」との編集部の依頼に応じるため、昨年五月号からこの四月号までの新聞を読み返してみた。
 最も違和感を覚えた記事は昨年五月号一面のインタビューである。新会長の個人的事項に関する受け答えが大半であるし、使用写真の被写体も私的なものであった。硬いものでは読んで貰えないとの発想から新鮮味を出したものであろうが、新会長就任インタビューとしては疑問に思う。一面トップの扱いであれば、ここでの内容は新執行部の長としての会務運営の指針を示したものであって欲しかった。読者に興味を起こさせるのは書き手の工夫によるものではあるまいか。
 理事者と広報委員会との意見交換の場で、委員会が新聞編集の速報性は保ちがたい旨の説明をしたとのことであるが(六月号一面)、この新聞は編集の適応性まで失っているのではあるまいか。概ね二か月遅れの報道が多すぎるように思う。例えば七月号四面に、囲碁大会「速報」との見出しの下に五月開催の結果報道がなされている。将棋もテニスも同様である。これを、五月号で、各大会の開催予告をし、予定出場者と勝者予想を掲載し、七月号では囲み記事で結果のみ知らせることにするなどの工夫ができるはずである。その記事により出場者も増えるのではなかろうか。重要な弁護士会総会の報道などにはもっと工夫を凝らして欲しいものである。
 同じ意見交換の場で、理事者側から「市民モニター制度」の提案がなされたとのことであるが、その後のフォローが全くない。「大変重要な意味を持ってくるはず」というのが見込み違いだったと言うだけのことなのであろうか。
 構成の観点からは、六月号の一面に疑問を持った。まず数ある一一〇番の中で、女性の権利だけを何故一面トップの扱いとしたのかの説明がない。また、見出し部分のスペースを取りすぎて他とのバランスを欠いていると思う。
 私的なものとはいえ「私のホビー」は興味を持たせる企画である。しかし掲載が場当たり的であったのが惜しまれる。三月号に「番外編」とあったので終了と思うのが自然だが、四月号にも掲載され、そのナンバーが二月号と同じ「一五」であった。まだ続くのであろうか。
 また、五月号と六月号に同好会案内が掲載された。同好会はこれに尽きるのであろうか。最初に掲載予定回数の断りが入っておれば、煩うこともない。細かいところにも気配りが欲しいものである。

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