横浜弁護士会新聞

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2005年11月号(1)

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こころざしは時を超えて −坂本弁護士一家事件から10年−
 9月10日、横浜市教育文化センターにおいて、坂本事件を今一度思い起こす集会が多数の参加者を得て催された。
 平成7年9月、坂本堤弁護士、妻都子さん、長男龍彦君の遺体が新潟・富山・長野の山中から発見されて10年。今回の集会は、この10年を振り返り、坂本弁護士事件が残したもの、坂本弁護士がその仕事にかけていた思いを今一度思い起こすとともに、今も絶えることがない弁護士業務妨害・犯罪被害に新たな気持ちで向き合うことを目的に催されたものである。
 集会は、第1部で音楽好きで知られた坂本一家を偲んでの音楽演奏会、第2部でオウム裁判、被害者問題、弁護士業務妨害をテーマにした講演・報告、第3部で関係者の挨拶、という3部構成で行われた。
 第1部は、坂本弁護士一家を偲ぶスライド上映を背景とした、室内楽グループ「アリュール」による弦楽四重奏で始まった後、都子さんの手紙が朗読された。
 次に、都子さんの立教大学時代の友人である人見江一氏、坂本弁護士の横須賀高校時代の友人である田中茂氏より2人の思い出が語られた後、同期の中村祐二弁護士、歌手の国安修二氏らによる、一家を歌った「SATOKO」「笑顔しか思い出せない」の歌唱が続き、第1部は、関係者それぞれの一家に対する思いが溢れた温かいムードの中静かに進行した。
 第2部では、朝日新聞社記者の降幡賢一氏による、ジャーナリズムの立場から見続けた一連のオウム裁判に関する講演に続き、中村祐二弁護士、木村晋介弁護士より、弁護士に対する業務妨害、オウム犯罪の被害者問題を中心とする犯罪被害者支援について俯瞰した報告が行われた。
 第3部として、坂本弁護士の母坂本さちよさんからのメッセージの紹介、都子さんの父大山友之さん(写真右)、母やいさん、日本弁護士連合会梶谷剛会長より挨拶があり集会は閉会した。
 土曜日の午後であったが、会場には多くの人が足を運び、坂本弁護士一家に贈られた演奏や、一家の友人・ご家族の話に静かに耳を傾けていた。
 事件から10年を経過したが、坂本弁護士一家を殺めたオウム真理教幹部らの刑事裁判はいまだに続いている。その一方で、地下鉄サリン事件に代表されるオウム真理教事件の被害者は、癒えることない傷を今も抱え同じ10年をそれぞれに生きている。子どもや障害者など社会的弱者の味方であることをライフワークとしていた坂本弁護士。会場を訪れた全ての人が、それぞれにこの10年に改めて思いを馳せ、今も残る坂本弁護士一家の思いを見つめ直す集会となった。

坂本 堤 FOREVER 岡田 尚 会員
 1995年9月10日(「こころざしは時を超えて」の集会のちょうど10年前)、神奈川県警科学捜査研究所地下霊安室。私はひとり、棺のなかに眠る坂本堤と対面した。本来ならば遺体の確認に赴くべき母さちよさんから、事前にこう告げられていたからだ。「私は、これから生きていかなければならない。息子の無惨な姿を見たらそれが一生頭から消えなくなる。堤の生きているときの笑い顔だけが思い出せるようにしたい。だから遺体確認にはいかない」。
 坂本の顔を見て、私は一瞬、目を疑い、息をのんだ。「坂本堤だ。私の知っているあの坂本だ」。5年10ヶ月ものあいだ、山中の土深く埋められていたというのに、「歯も、髪の毛も残っている」。私はそっと髪の毛を撫でた。「君は私たちが救いにくるまで、自分と判る姿でいたのか。早く救いにきてくれ、と祈っていたのだな」。そんな坂本の想いと全国で救出のために立ち上がった多くの人たちの「生きて帰れ」の想いが、こんな形でつながっていたのか、私はあふれ出る涙をどうしようもなかった。
 坂本が事務所に在籍したのは2年6ヶ月にすぎない。彼が私たちに残していったものって何なんだろうか。時を超えて在り続け、そして私たちが引き継ぐべき「こころざし」とは、具体的に何を指すのだろうか。
 「20歳になる娘が、オウム真理教の信者になって、どこにいるのか、連絡さえつかない」と相談されたとき、私なら「未成年ではない、信教の自由がある、行方不明の人捜しは弁護士の仕事ではない」と言って受任していないと思う。法律問題の前に、そこに悩んでいる人がいる。まずその人の悩みに寄り添って一緒に考えてみる。これが坂本の人間としての、弁護士としての優れた側面である。そして、その悩みは、その人だけのものではなかった。あっという間に何十人と輪が広がっていく。問題解決には、悩んでいる人に寄り添う優しさと、それを真に解決するには、社会の現実と向き合ってたたかうことの必要性、その両面を坂本は深く自分のものとしていた。弁護士として、まさにそのことを実践していた。そして、そのことの故に殺された。
 まもなく、17回忌を迎える。生き続けると、肉体も精神も金属疲労を起こす。澱りもたまる。ときどき、坂本の「こころざし」、彼が一家もろともの生命と引き換えに残したものを我が身を引きしめて思い起こさねばならない。

山ゆり
 先日、かねてから薦められていた小説を読み出した。期待して読み出したが、どこかで聞いた設定に期待が懸念に変わる。もう暫く読み進めて確信した。1度読み終えた小説であった。それも読んだのは昨年か今年の初頭だ
読んだこと自体を覚えていないのも問題だが、同じく問題なのが、昨年読んだ小説の筋を全く思い出せないことだ。しばらくパラパラと頁を捲り、ようやく粗筋を思い出す始末
あとン10年は働くつもりでいる。呆けるにはもう少し時間を戴きたい
もっとも、忘れやすいのは今に始まったことではない。昔から特に人の名前をすぐ忘れる傾向があった。2年ぶりに会った1年間机を並べて過ごした高校時代の友人の名前が出てこなかったこともある
この仕事を始めてから、特にたくさんの人に出会うようになった。配った名刺は2年で500枚を超えた。全て把握するのはなかなか大変なことである。とはいえ、名前を忘れるほど失礼なこともない。そんなつもりはなくとも事件に対する真剣さを疑われかねない。何か良い記憶の整理方法がないものか
とりあえず冒頭に書いた小説は、もう一度読み直すことにした。どのような結末が待っているのか楽しみだ。忘れることも悪くない、そう自分を慰めつつ、忘れたことを忘れてしまうこととした。
(池本 康次)

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