横浜弁護士会新聞

2008年9月号  −3− 目次

私の独立した頃(110) 会員 中山 秀行
家は建たないが 毎日の飲み代には事欠かない
 私が丁度広報委員だった時に横浜弁護士会新聞は発刊された。当時、囲みの企画記事をどうしようかという話し合いがもたれた。その新企画のひとつとして、この「私の独立した頃」が生まれ、今ではこれが長寿企画としてつづいている。しかもこの企画に執筆するのは長老かベテランばかりかと思っていたら、単に還暦を過ぎただけという病み上がりの私に依頼がきたというので驚いている次第である。
 私がイソ弁として大村武雄先生の事務所に入れていただいたのは昭和53年4月のことである。その後、次々とイソ弁が増え、私が独立した昭和63年ころには馬場、黒田(和)他の各先生がいて仕事が終われば毎晩事務所のどこかで飲み会がはじまり不夜城の如き観を呈した。時々大村先生が、当時まだ隣にあった寿司幸から寿司をとってくれたりして、そのにおいをかぎつけた佐藤(克)先生や庄司(道)先生などまで押しかけて談論風発が夜遅くまでつづいたものだった。新聞や会報の編集も締切りに間に合わなければ、夜、事務所に場所を移してつづけられた。
 当時、広報担当だった田中茂副会長が、そばでじっと編集作業を見守っておられ、「終りました」と報告するや、「終わったか。よーし、飲みに行こう」と言われ、編集委員の面々、肩を連ねて関内の居酒屋にくりだしたことを覚えている。その田中茂先生も幽明境を異にしてすでに久しい。その時のことを思い出すと今でも熱いものがこみ上げてくる。
 私の独立したあの頃はそういった時代であった。何もかも旧式でみんなで手作業で作り上げる喜びがあり、そばにはいつもしっかりと寄り添ってくれる先輩の熱い視線があった。当時は弁護士会も会員300人程度でそんなに大きくなかったし、携帯電話もなく、パソコンもなく、要するに世間全体も我々の仕事もずい分ゆったりしていた。
 ところが、周囲があっという間に携帯もパソコンも使えない私を追い越していったのはそう時間はかからなかった。
 昭和63年ころ、私は同期の馬場先生と同じ弁護士ビルの8階に独立した。独立すれば当然のことながら事務所の経営に心を砕かなければならない。もとより経営者になるための訓練などまったくしていない私も馬場先生も四苦八苦でした。しかし、当時は右肩上がりの時代で食うには何とか困らなかった。ひとことで言うなら「家は建たないが毎日の飲み代には事欠かない」程度の収入であったと思う。
 何とはなしの不安と希望と闘志があった時代であった。

新こちら記者クラブ 事件の背景に迫る努力を
 家族に支えられ重い足取りで法廷に入る被告人。高齢で耳の不自由な被告人は、裁判長が大きな声で読み上げる判決を被告人席に座って静かに耳を傾けていた。いわゆる「老老介護」で疲れた末、認知症の妻(87)を殺害したとして殺人の罪に問われた被告人(94)の判決が横浜地裁川崎支部であった。
 裁判長は「家族に相談するなど現実的な手段は残されていた」と被告人を非難する一方、「すべての結果を負わせるのはあまりにも酷。急速に進展する高齢化に社会全体が対応しきれておらず高齢者が高齢者を介護しなければならない社会のひずみが悲劇の遠因」と事件の背景に触れ、執行猶予のついた有罪判決(懲役3年)を言い渡した。
 事件後、弁護側は町内会などで集めた1000人を超える嘆願書を提出し執行猶予付きの判決を求めていた。
 事件の背景を訴えるのは弁護士の仕事のうち重要なものの1つかもしれない。そして事実に潜んでいる背景に迫り報道することは記者の仕事の根幹だ。今回の事件にあたって、私はその背景に迫るべく努力をしただろうか。裁判所に出向く以外に、他にも取材することがたくさんあったのではないか。
 薬害エイズ問題がまだ注目される前から追及し、今なおこの問題の取材を続けているある新聞社の尊敬する記者からもらった手紙にはこうあった。「『何のために記者になったのか』『誰のために書くのか』これが小生の自戒の言葉です」。振り返って今の自分をみつめると反省の念ばかりが残る。
(TBSテレビ 西村 匡史)

理事者室便り5 「弔辞」を書く
副会長 小賀坂 徹
 会員が亡くなると葬儀に出席し弔辞を手向けるのも、地味ではあるが理事者の仕事である。この7月にも会長経験者で94歳の会員が亡くなられた。94歳の大往生ゆえ私など若輩には一面識もない大先生だった。
 そもそも弔辞というものを書いた事がないので、その「お作法」というものがまるで分からない。まして面識のない方に対するものである。おまけに事の性質上、急いで書き上げなければならないものだから余計に困惑する。
 こういうときに実に頼りになるのが、会の事務局である。亡くなられた会員のかつての「会報」の手記、弁護士会新聞への投稿、弁護士会館建設の際の座談会の記事、横浜弁護士会史、あるいは故人を知る方のお話しを聴き取ったメモ、さらには過去の弔辞の数々などを、「さあ書け、どうだっ」という勢いで瞬く間に用意してくれるのである。
 そうした資料に一通り目を通しただけで、ありし日の故人の人柄が存分に分かるという風にはいかないが、弁護士業務や会に対する思いなどは十分に伝わるものがある。そんな大先輩が残してくれた貴重な足跡にふれ、とりわけ弁護士会を大事に思い、その発展を願っていた気持ちに触れると、心強く思うと同時に、少しほっとしたような温かな気持ちになる。
 告別式で会長が読み上げたその長文の弔辞を、遺族の方々に喜んでもらえたことで、何とか役割を果たすことができた気がして少しだけ安堵した。

法曹懇談会 今年も盛況のうちに
 7月14日、当会5階大会議室にて、裁判官20名(地裁18名、家裁2名)、検察官14名、当会会員61名の合計95名が参加し、恒例の法曹懇談会が催された。
 本年度の当番庁である当会武井会長の開会の挨拶に始まり、次年度当番庁の横浜地裁安部所長が乾杯の音頭をとられ、各所で歓談の輪が広がった。お酒や美味しい料理に会話も弾み、仕事の話のみならず、趣味や家族の話までに及んだ。
 工藤副会長の検事時代の上司であった増田横浜地検検事正が挨拶をされたが、当時同副会長の机上には奥様の写真が飾られていたことなど、検事時代の話が紹介され、この日一番の盛り上がりを見せた。
 元上司からのエール(?)を受けた工藤副会長が閉会の挨拶にて当会における裁判員制度への取り組みの実情などを述べ、約一時間半に亘る本年度の法曹懇談会は盛況のうちに幕を閉じた。

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