横浜弁護士会新聞

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2001年7月号(2)

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◇経歴をお聞かせください。
 京都府綾部市の出身で、修習は一八期です。司法研修所では貴会の長谷川昇さんと同じクラスでした。
 昭和四一年に任官し、初任地は大阪でした。司法行政に携わっていた期間が長く、最高裁の経理局などで勤務しました。経理局長を務めた後、甲府地家裁所長、東京高裁部総括判事を経て横浜に着任しました。
◇裁判官生活で印象に残っていることは?
 会津若松での支部勤務が印象に残っています。民事刑事の裁判はもちろん、保全、執行、令状に加え、少年事件や家事事件も担当しました。裁判所の内外に多くの人が関わっていることを知り、とても勉強になりました。
 東京高裁時代には「JTOL殺人事件」「栃木リンチ殺人事件」「東名高速二児焼死事件」などに関与しましたが、事実認定や量刑の難しさ、責任の重さを実感しました。
◇横浜にはどんなイメージを持っていますか?
 神奈川新聞が、横浜在住の作家故山田智彦さんの大切にされた「横浜の距離」という言葉を紹介していました。横浜は東京から少し離れた距離にあって、中央の熱い議論や出来事を冷静にみることができる、東京にいるよりもよく日本の中心が見えるポジションだという意味だったと思います。なるほどと思うと同時に、この言葉の意味を横浜で実感したいと思っています。
◇新庁舎完成にあたってのご感想は?市民に新庁舎を披露していただくような計画はおありでしょうか?
 横浜地裁の庁舎新営は、経理局長時代の最後の大きな仕事でしたので、新庁舎完成時に所長を務めていることには感慨深いものがあり光栄に思っています。
 旧庁舎は戦前に建築された歴史的な建造物で、市民の皆さんに愛着を持っていただけていたので、そのイメージを残すことに努力しました。また、旧庁舎内の陪審法廷を何らかの形で活かしたいと思いましたが、桐蔭横浜大学に移築することができ、学生の方々に実際に使っていただけることになり、うれしく思っています。

 市民の方々には、工事中不自由をおかけしましたし、旧庁舎に愛着をもっていらっしゃったこともよくわかっているつもりですので、新庁舎の出来映えはどうか、市民の方々に見ていただく機会を持てないかを現在検討しているところです。

◇現在の司法改革論議にはどのようなお考えをお持ちですか?
 変えていかなければならない点については大いに議論していくべきだと考えています。ただ、司法の現状を踏まえた議論であって欲しいと思います。また、地域の実情を踏まえた議論でなければならないとも思います。
 裁判員制度などの市民の司法参加については、導入するとして、審理や判決のありよう、上訴などについてのしっかりとした議論が必要なのではないでしょうか。
◇横浜弁護士会に一言。
 「感じの良い弁護士会」という印象を受けました。今後ともざっくばらんな関係でありたいと思っています。民裁懇などの懇談会が開かれているようですが、裁判所からも積極的に参加して意見を聞かせていただきたいと思います。
 先日の歓迎会で弁護士任官の話題が出ていましたが、多様な経験を持った方々が裁判所の中に入って来られることは、裁判所にとっても良いことだと思います。横浜弁護士会からも任官者が出ることを期待します。
*  *  *
 予定時間をオーバーして、新庁舎完成への感慨や横浜のイメージ等について熱く語っていただいた。
 お子さまは既に社会人で、現在は奥様と二人暮らし。お休みの日には三渓園や元町などを歩かれているとのこと。野球がお好きで、若いころはご自身でもピッチャーやサードを守ったことがあると言われる。本年の三庁対抗ソフトボール大会では、裁判所の強力な戦力となられることだろう。
(聞き手 木村保夫副会長 狩倉博之) 

 五月二九日、ザ・ホテルヨコハマ一三階レストラン「カラベル」で、小林嗣政前関東弁護士連合会理事長の退任慰労会が催された。小林会員は、去年四月から今年三月まで、関弁連理事長として、大変な激務と大役を全うされた。
 午後六時、当会、須須木永一会長の挨拶から会が始まった。
 小林会員は、理事長として過ごした一年間が、楽しく充実したものであったこと、在任中、全国八つのブロック会を回ったこと、島根県で開催された日弁連大会に出席した時のこと、亡小渕元首相の葬儀に参列した時のことなど、楽しくまた懐かしそうに語られた。
 そして、最後に、関弁連が、今後より大きな存在となっていくことを期待すると共に、またそのようになることを信じていると締めくくり、会場からは盛大な拍手がわき上がった。
 当会、池田忠正常議員会議長の乾杯の発声に続き、小林会員に、記念品として花束と年間の誤差が一〇秒しかないという懐中時計が送られた。小林会員は、冒頭の挨拶で、この時計にあやかり、健康に留意し「心身の誤差」を少なくしたいと話し、会場は大いに盛り上がった。
 慰労会は、極めて和やかな雰囲気で行われ、当会、小島周一副会長の閉会の辞で、盛況の内に幕を閉じた。

弁護士たる者、夕食は 家庭でとるべからず?
 昭和四七年四月横浜弁護士会に登録し川崎市の大師近くの自宅で開業しました。(二四期)事務所とは言っても普通の住宅で、兄が開業祝にくれた檜製の看板を門に掲げるのも恥ずかしいので玄関の中に置いておく始末でした。
 開業後間もなく、ある先輩の先生よりいわゆる「イソ弁」に誘われ、お話を聞いたのですが、何か自分の考える弁護士像(生意気にも)と異和感があり、お断わりする理由に困り、やはり先輩の戸田先生に相談したところ、「俺の事務所に来い」と言われ、お世話になることになりました。
 約一年間ではありましたが固定給でなく歩合給的収入で自分の仕事も自由にしてよいという好条件で、同期のイソ弁の二倍位は収入がありました。
 戸田先生は仕事が終ると毎日のように、あちこちの飲食店に誘ってくれ、弁護士というのは毎晩外で飲食するのかなと思いました。
 法律相談、国選弁護は順番制でしたが御多忙な先輩の代りを引受け収入も比較的によく仕事にも満足感がありました。
 一年位経ち横浜での自分の仕事も多くなったので、戸田先生のお許しを得て横浜市中区太田町の馬車道近くのビル約一〇坪を賃借し事務所を持つことになりました。この時が「独立」の時ということになります。
 開業資金は協同組合を通じ三〇〇万円位を銀行より借りたと思います。
 川崎市での法律相談はわずか一年位でしたが、お別かれに際し川崎市は送別会をしてくれ記念品の金盃(金メッキ)までいただき恐縮いたしました。良き時代でありました。
 独立当時は諸先輩の先生より仕事を廻していただいたり共同代理人という形で援助していただき収入的には相当あった筈なのですが、遊びについての優秀な諸先輩(M先生Y先生S先生等)とのおつき合いで遊びの御指導を受け、支出も結構多かったので、事務員への賞与の支払、確定申告の所得税の支払時期になると預金不足で亡母よりの借金でしのぐ始末で苦労しました。ただ、研修所の弁護教官より「弁護士たる者は晩めしを家庭で食べるようでは大成しない。」と言われたこともあり、毎晩飲んで深夜帰宅、時には朝帰りもあり、この責任の一端は指導教官にあると自己弁護をしております。
 開業三〇周年を迎え今一番心配なことは老後(もう老人です)の生活をどうするかです。八〜九年前に協同組合年金基金制度が実現しましたが年齢の関係で私は加入せず、国民年金だけが固定的収入です(あと数年は弁護士収入もありますが)。

 これからの若い会員の方々は老後のことを十分考えて仕事をされることが必要でしょう(こんなことは当り前のことで、今更悩む会員など少いでしょうが)。

 任官者と違い弁護士には退職後の生活保障が無いのですから、個人々の対策が重要ですね。

 本年四月一日施行の改正刑事訴訟法(一五七条の四)により、裁判所は、一定の証人を尋問する場合、裁判官及び訴訟関係人が在席する場所以外の場所(同一構内に限る)に証人を在席させ、映像と音声の送受信により相手の状態を相互に認識しながら通話をすることができる方法によって尋問することができることになった。
 証人は別室に在席し被告人と顔を会わせずにテレビ画面を通じて証言できることになる。
 五月二二日、横浜地裁刑事庁舎において、同システムの説明会が開催された。
 当会会員と横浜地検検事など三〇名以上が傍聴席を埋め、法廷内の各機器及び証人の在席する別室の機器についての説明のあと、百聞は一見に如かずということで、同システムを使った模擬証人尋問(暴行の被害者に対する尋問)が行なわれた。
 実際に同システムによる尋問を行う場合、証人への十分な配慮に加え、カメラマイクユニットの操作や液晶モニターに気をとられることなく本来の尋問に集中できるようにするために、訴訟関係人らが事前に機器の操作に習熟できるよう運用されることが望まれる。 

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