横浜弁護士会新聞

2007年3月号  −3− 目次

使える!労働審判制
 会員 佐藤 正知
 昨年4月、労働審判制がスタートした。労働審判手続の審理には、職業裁判官である審判官1名及び審判員2名(労働組合から推薦された1名と使用者団体から推薦された1名)により構成される労働審判委員会があたっている。
 対象となる事件は、労働者個人と使用者との間の法的トラブル全般である。
 労働審判制の特徴として、3回以内の期日で終結するという制約が存することが挙げられる。ほぼ申立から3か月以内に終結することになる。通常訴訟の場合、労働事件の審理期間が、平均で11か月以上であることと比較すると、極めて迅速である。
 この制約は、期日の充実を促し、第1回から、主張及び証拠の整理にとどまらず、証拠調べ(審尋)まで行われている。証拠調べでは、労働審判委員会から質問を開始する例が多く、労働の現場の実態を知る審判員からも、鋭い質問がなされている。
 そして、主張・立証の状況に応じて、調停を行い、不調の場合には、審判が下される(なお、審判の場合、審判員は、審判官と対等な1票を有している)。横浜地裁の場合、施行から半年の統計では、終結件数の内50%が、第2回期日までに終結している。
 審判が下された場合、当事者から異議が申立てられない限り、裁判上の和解と同一の効力を有する。異議が申立てられた場合には、審判は効力を失うため(この場合通常訴訟手続に移行する)、通常訴訟ほどの実効性はないものの、使い勝手の良さから、横浜地裁における昨年の申立件数は、77件に及んだ。
 労働審判制は、各地の実情に応じて運用されており、横浜地裁においても、当会民事裁判手続運用委員会労働審判部会との協議を受けた形で運用されている。
 例えば書証のうち標目が「陳述書」とされているものについては、審判員用副本を提出すれば、第1回期日前に審判員にも送付されており、審判員による事件の事前検討を可能とした。同部会は、今後も労働審判手続の更なる充実化を目指し協議を継続する予定である。

私の独立した頃 (106)
 多くの方々のご厚情に支えられての独立
会員 赤松 由章
 「蝉しぐれ」で著名な作家と同郷の私が、何の縁もなかった当地に昭和52年に登録しお世話になったのは、今は亡き川島政雄先生の事務所でした。政雄先生には、いまだ修習中、不躾にも千葉の馬橋にあった研修所寮の公衆電話で仲人のご依頼をしたところ、快くお引受けいただいたことは生涯忘れ得ぬ思い出です。
 川島事務所では夕方5時を過ぎるとビールが出て、ほろ酔い機嫌になったところで階下の雀荘に直行という毎日で、居心地のよいイソ弁ライフについつい丸8年が経過してしまい、同期最長記録となったものでした。しかしながら政雄先生が昭和59年5月に亡くなられたことで、急遽事務所を引き継がれたご子息清嘉先生のご承諾を得て、昭和60年4月に独立することになりました。
 構えたのは裁判所間近ではあるが相当なオンボロビルで、憐憫の情を覚えたと思われる同期の高橋理一郎君らが赤い包みを持って訪問してくれたことは印象深く覚えており、その時の包みは今も大事にしまってあります。
 スタートこそ心もとなかったものの、川島事務所出身の佐藤直・卓也両先生(チョク・タク先生と呼んでいました。)や久連山剛正先生から折々に「財産管理人になってもらえるか」などとお声をかけていただき先輩の情が身に染みましたが、いまだ何の恩返しも出来ていないことは恐縮の窮みです。
 また、独立後間もない時期に裁判所から破産管財人に任ぜられ、第3民事部浦野雄幸裁判官の叱咤のもと、鶴見にあった会社本社と千葉袖ヶ浦の工場をかけめぐる日々が始まり、赤旗を立て工場に立て籠る組合従業員との折衝や、工場機械・不動産換価等に忙殺されましたが無事片付けることができ、過分の管財人報酬が得られたことで一息つくことができたものでした。最近千葉のゴルフ場に行くのにアクアラインを通り抜けると袖ヶ浦には30分足らずで着き驚いてしまいますが、管財人の仕事で通った当時は電車の乗り継ぎだけで片道3時間もかかり、ほとんど丸一日仕事だったことを思い出して今昔の感に耐えないものです。
 振り返ってみれば、独立後の数年間は目の前にある仕事を無我夢中でこなすのに精一杯で、将来へのあせりや不安を感じる間もなく過ぎ去ったというのが実感であり、経済面に限れば今の若い先生達より若干恵まれた時代だったのかもしれません。
 独立から4〜5年位して多少の余裕もでき、この頃から宮崎捷壽先生らに誘われて始めたヘタなゴルフはいまだに続き、一昨年にはバースデイ・ホールインワンという怪挙!をなしとげてしまいました。その宮崎先生も最近は俳句に専念されゴルフから遠ざかられているのは寂しい限りです。

理事者室だより1
木村会長と愉快な仲間たち
副会長 延命 政之
 早いもので、このコラムも最終回を迎えました。そこで、感謝の気持ちを込めてこの1年をふり返ることにします。
 この1年は、「法テラス」に始まり「法テラス」に終わったと言っても過言ではありません。前半は「法テラス」の開業に向けた準備を、後半は法律扶助協会がなくなることに伴う自主事業存続の準備に、時間を費やしました。「法テラス」とのやり取りや、刑事弁護センターや子どもの権利委員会など「法テラス」に関わる各委員会とのやり取りでは、それぞれの立場の違いから意見が対立することもありました。深刻な議題では、理事者の考え方を理解していただけず、声を荒げたり押し問答をすることも少なからずありました。
 そんな時でも、理事者室に戻ると私たちは和気藹々(わきあいあい)。私たち今年の理事者は「木村会長と愉快な仲間たち」と呼ばれているようです。決して「軽い」わけではありません。持ち前の明るさで難問を乗り越えてきたというのは我田引水でしょうか。泣いても笑っても3月末で私たちは退任します。
 「理事者室の前で泣かないでください。そこに私たちはいません。議論なんかしていません。千の風に千の風になってあの大きな空を、吹きわたっています」(なんてね…)。皆さん、さようなら。

こちら記者クラブ 未熟者なりに
 1年ほど前の横浜地裁での横浜事件の再審判決公判。「免訴」の判決が各紙の1面を飾ったとき、私はまだ大学生だった。それら3か月後、新聞記者となり右も左も分からぬまま取材に奔走する日々が始まった。昨年8月から神奈川の事件及び司法の担当に。殺人罪に問われた岡本千鶴子被告の初公判、三菱自動車の虚偽報告事件の判決公判。裁判の原稿を書くたびに「法学部でもっと勉強しておけば」と悔やんでばかりいる。
 先日、久々に高校時代の友人と酒を飲み交わした。現在法科大学院に通う彼。将来は破産法の専門家として中小企業の再生を助ける弁護士になりたいという。別れ際、「自分は司法のプロとして頑張る。お前は報道に携わる者としてもっと法廷の中のことを伝えてよ」とつぶやく彼の言葉に私はハッとした。
 他のいくつかの社と同様、私は県警記者クラブとの兼務のため、地裁での裁判にくまなく足を運ぶことはできない。ただ、それを言い訳に、注目を集める裁判をフォローするだけになりがちだ。見逃してしまっている裁判のなかに、自分たちが生きている社会の在り様を象徴する事件や訴訟がたくさんあるだろう。それを発見し、報道していくことも自分の大切な仕事だと思う。
 入社してもうすぐ1年。まだまだ半人前にも至らない未熟者だ。せめてこまめに裁判を傍聴することで法廷からいろいろなことを学び、記者としても人間としても成長していきたい。
日本経済新聞 社会部
茂木 祐輔

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